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学芸員20年越しの謎が解けた!三ツ山古墳で東三河最古の横穴式石室を確認!しかし、この古墳にはまだまだ謎がいっぱい

(PR TIMES) 2022年12月20日(火)10時15分配信 PR TIMES

豊橋市牟呂町にある三ツ山古墳の発掘調査で、東三河最古の横穴式石室が発見されました。約20年前の発掘調査で石室があること自体はわかっていましたが、それが竪穴式なのか横穴式なのかが判明しておらず、今回改めて行った発掘調査で横穴式石室の入り口が発見されました。発掘調査の担当学芸員は20年前もこの古墳の発掘調査を担当しており、「謎が謎のままで終わらず、長年の謎が解けて良かった」と語ります。またこの古墳は、周辺の古墳では例を見ない特殊な構造をしていることがわかりました。学芸員による詳しい現地説明会を令和4年12月25日に行います。
[画像1: https://prtimes.jp/i/25583/218/resize/d25583-218-7fda6e8f0756943a5a22-1.jpg ]



三ツ山古墳は6世紀前葉の前方後円墳で、豊橋市牟呂町の三ツ山公園の中にあります。約20年前の発掘調査で、長方形の石室があることは分かっていましたが、それが竪穴式か横穴式かを見分けるための入り口の部分にはすべり台が設置されており、調査がかなわず謎のままになっていました。土地区画整理事業で公園整備を行い、すべり台が撤去されたことで、発掘調査が可能になり、横穴式石室であることが確認されました。
三ツ山古墳について、学芸員による現地説明会を令和4年12月25日に実施します。

[画像2: https://prtimes.jp/i/25583/218/resize/d25583-218-4f814fad3caee292402f-4.jpg ]


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調査結果の市民向け説明会
学芸員による調査結果の説明や、出土品の展示を行います!
令和4年12月25日(日)10:30〜、14:00〜
駐車場はJA豊橋西支店の南側駐車場を利用(会場まで送迎あり)
参加料無料、事前申し込み不要
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[画像3: https://prtimes.jp/i/25583/218/resize/d25583-218-dcd64242c7b489357e25-0.jpg ]

[画像4: https://prtimes.jp/i/25583/218/resize/d25583-218-0cd3954f9d5050213288-3.jpg ]


三ツ山古墳の横穴式石室は、1回だけの葬送で使用した後、入り口に石を積み、さらに土を盛って墳丘を築いています。これは、一般的に追葬を前提とする横穴式石室としては異例の構造です。担当の岩原学芸員は「古墳の制作技術が、1人だけを埋葬する竪穴式から複数人を埋葬する横穴式へ移り変わっていく途中で、初期の横穴式の特徴と考えられる」と分析します。
入り口部分で、壁の役割を果たす左右の石積みは比較的良好な状態で残されています。また裏込めに使用された石は、後に作られた古墳と比較すると非常に大きいものが使用されており、これも初期の横穴式石室の特徴と考えられます。
岩原学芸員は20年前にもこの古墳の発掘調査を担当しており、「わかりませんでした、で終わらせたくなかったので、今回謎が解けて良かった」と感想を漏らしますが、発掘調査を進めるうち、さらなる謎があることがわかってきました。

謎の一つ目は、まだ発見されていない石室の可能性です。今回発掘調査を行っている石室は、前方後円墳の「くびれ」から少し前方部よりの部分にありますが、三ツ山古墳にはもう一つ、後円部にも石室があることが分かっています。一つの前方後円墳から複数の石室が発見されることは、非常に珍しいことで、加えて、それぞれの石室の位置が古墳の中心から外れていることから、岩原学芸員は、さらに一〜二つの石室が存在する可能性を指摘しています。

[画像5: https://prtimes.jp/i/25583/218/resize/d25583-218-f916f41ee347fb966854-6.jpg ]


二つ目の謎は、天井石崩落の謎です。入り口左右の石積みが良好な一方で、入り口部分の天井石は崩落しており、本来の位置をとどめていません。石室入り口のすぐそばから11世紀の土器が出土していることや現場の状況により、平安時代のうちに崩落していたと考えられます。平安時代には、密教の僧などが古墳時代の石室を利用して修行をすることがあり、三ツ山古墳もその可能性があると考えられます。石室内部の刀や馬具、須恵器といった副葬品が無事だったことが大きな理由ですが、盗掘を狙った可能性も捨てきれないと岩原学芸員は考えています。
[画像6: https://prtimes.jp/i/25583/218/resize/d25583-218-0dee85535f84d224acf8-5.jpg ]



三ツ山古墳に埋葬された人物は、かつて港として使われた三河湾の入り江だったこの地を治めた豪族で、海上交易で栄えたと考えられます。前方後円墳という和(倭)式の大きな特徴を有しながらも、当時渡来して間もない朝鮮半島由来の横穴式石室が造られた三ツ山古墳は、日本と朝鮮半島のハイブリッド古墳と言えます。しかし、この地方には同時代の古墳が少なく、これらの技術がどのように伝播してきたのか、という大きな謎が残ります。

三ツ山古墳の全容を明らかにするために大きな障壁となっているのが、この古墳がこれまでたどってきた歴史です。現在は「閑静な住宅地の中にある公園の中の小高い山」という印象を持ちますが、この地はかつて、古墳から程近くにある坂津寺の境内の一部でした。江戸時代に、坂津寺の住職がこの地の景観を豊かにしようと、古墳に土を盛り三つの山に作り替えました(このことから「三ツ山」と名付けられました)。また、太平洋戦争中には、古墳内部に防空壕が造られ、その建設作業時に石室の一部が破壊されました。これらの影響で、本来は全長約38メートルだった古墳が、現在では約30メートルしか残っていません。

一方で、古墳の傾斜を利用してすべり台が設置されていたように、市民の憩いの公園として長らく親しまれてきた場でもあります。公園整備に伴って新しく設置される遊具には、かわいらしい埴輪(はにわ)のイラストが用いられることになっており、これから公園を利用する子どもたちにも、古墳を身近に感じてもらいたいものです。三ツ山古墳の全容解明がなされることを期待します。
[画像7: https://prtimes.jp/i/25583/218/resize/d25583-218-95ee8d3bd8d022010e60-2.jpg ]



プレスリリース提供:PR TIMES

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