プレスリリース
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「FZ25」をパートナーにアンデス山脈を越え、アルゼンチンに入国。57年ぶりのリベンジを果たした吉田さん
過去2回の旅で延べ73か国・16.5万kmを走破
「諸々の事情で世界地図に残してしまった未走破ルートがいくつかあって、ずっと心に引っかかっていました。そのうちの一つ、バイクによるアンデス越えを57年越しで実現することができました」
吉田滋さん、81歳。現役時代は、オートバイの開発や企業ミュージアム・コミュニケーションプラザの初代館長として活躍した当社のOBです。その吉田さんが、今年3〜4月にかけてバイクによるアンデス山脈越え(チリ〜アルゼンチン間)を達成し、7月下旬、その報告会が開かれました。
吉田さんが最初の世界一周(東回り)に出発したのは、大学を卒業したばかりの1965年。「YDS-3」(250t)を相棒に2年半をかけ、60か国・13万6,000kmを走破しました。帰国後、真っ黒に日焼けした顔で当社創業者の川上源一に会い、その報告をしたことが入社のきっかけです。
しかし、この世界一周ツーリングには心残りがありました。ソ連時代のロシアに入国できず、ユーラシア大陸に大きな空白ができてしまったことです。その空白を埋めるために2度目のツーリングに出発したのは、定年退職を迎えた2002年。西回りのその旅では、「ロイヤルスター」(1300t)にまたがってロシアを含む13か国・2万9,000kmを走りきりました。
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1965〜68年の最初の世界一周ツーリング。相棒は当時の最新モデルだった「YDS-3」
車窓から見たアコンカグアとバイクで再会
2度にわたる世界一周で、吉田さんの旅は完結したかのように思われましたが、じつはそうではありません。
「最初の旅では、アンデスを越えてチリからアルゼンチンに入国する計画でした。しかし真冬の大雪に遮られてどのルートも走行不能で、仕方なくバイクと一緒に汽車でアンデスを越えた経緯があります」
吉田さんは、このリベンジを果たすために南米行きを決意。チリで「FZ25」(250t)を入手して、見事にアンデス山脈越えを達成しました。「57年前にアコンカグア(南米最最高峰/標高6,962m)を見たのは、汽車の窓からでした。今回はバイクにまたがってその雄姿を望むことができ、感慨深いものがありました」と振り返ります。
この旅で、嬉しい再会もありました。57年前、いくつかのルートでアンデス越えにトライしているうちに、風邪で高熱を出してしまった吉田さん。野宿を諦め、プコンという町で民宿に転がり込んだそうです。「家族経営の民宿には、幼い二人の娘さんがいました。日本人が珍しかったようで、体調が戻ってからはずいぶんおしゃべりを楽しみました」。その時の感謝を伝えようと、プコンでその家族を探したところ、地元の人の協力もあり末娘さんと再会。「当時10歳。『死にそうな顔で家に入ってきた日本人を、昨日のことのように覚えている』と言ってもらい、感激しました」と振り返ります。
最後に、吉田さんに「遂にこれで完結ですね?」と念を押したところ、「いや、じつはまだインドに」と、傘寿を超えてまだまだ元気な様子です。
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かつて吉田さんが高熱を出したプコン(チリ)で、57年ぶりの再会。
当時10歳(右の写真/吉田さん撮影)だった民宿の末娘さんは、
フラフラになって転がり込んできた日本人青年のことを覚えていた
■広報担当者より
まだまだ世界が遠かった1965年。大学を卒業したばかりの青年が、バイクで世界一周したという事実をうまく頭に思い描くことができません。現在なら、その道の先に待っていることをある程度事前に知ることができるでしょう。ですが、まさにその旅は「冒険」以外の何物でもなかったはずです。80歳を過ぎて、いまだ衰えないその冒険心。穏やかな吉田さんの人柄とのギャップに、ただただ驚くばかりです。
本件に関するお問合わせ先
コーポレートコミュニケーション部 広報グループ
TEL:0538-32-1145