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喜界島に文楽を繋ぐ会

史上初!喜界島での「俊寛」奉納公演が決定 文楽界を代表する師匠3名が参加

(@Press) 2024年04月23日(火)09時30分配信 @Press

喜界島に文楽を繋ぐ会は、奄美群島・喜界島で史上初※となる文楽公演「千年を超え今蘇る喜界島の俊寛」(7月公演)が決定したことをお知らせします。
公演には文楽界を代表する師匠が参加。史上初となる、「俊寛」ゆかりの地・喜界島で、文楽「俊寛」の奉納を行います。(喜界島に文楽を繋ぐ会・鹿児島県大島郡喜界町・代表 吉田 照倫)
※当会調べ

【太夫】 十一代 豊竹 若太夫(この4月に襲名。旧名・六代 豊竹 呂太夫)
【三味線】鶴澤 清介
【人形】 二代 吉田 玉男(人間国宝)

画像1: https://www.atpress.ne.jp/releases/392659/LL_img_392659_1.jpg
「千年を超え今蘇る喜界島の俊寛」プロジェクト

■実施概要
「喜界島に文楽を繋ぐ会」メンバーの熱い思いに応え、文楽界を代表する方々【太夫】十一代 豊竹 若太夫(前・六代 豊竹 呂太夫)師匠、【三味線】鶴澤 清介師匠、【人形】吉田 玉男師匠(人間国宝)が、喜界島の「俊寛」所縁の場所で、史上初となる文楽「俊寛」の奉納を行います。
俊寛像の前での奉納演技の他、文楽「俊寛」の舞台公演や、子ども達へのワークショップ等、喜界島の人たちと「俊寛」を通じた交流が実現します。

○イベント実施
2024年7月5日(金)〜7月7日(日)

<1日目>
7月5日(金) 夕方:文楽ご一行喜界島入り 夜:食事会

<2日目>
7月6日(土) 午前中:喜界島の子供たちに、歴史や文楽についてのワークショップ
午後 :・「俊寛像」前にて、文楽「俊寛」奉納
・喜界町公民館にて文楽「俊寛」公演(子供たちは招待)
夜 :喜界島の皆さんや、島外からのお客様との懇親パーティ
<3日目>
7月7日(日) 文楽ご一行 喜界島観光後、帰阪

○クラウドファンディング
4月4日〜5月末の期間、「CANMPFIRE」にてクラウンドファンディングを実施。

「千年を超え今蘇る喜界島の俊寛」プロジェクト
詳細URL: https://camp-fire.jp/projects/view/749389


■背景
平清盛により流罪となった、俊寛僧都。
「俊寛終焉の地」伝説を持つ硫黄島以外にも、実は喜界島にも同様の伝説が残されています。
今回、文楽を代表する師匠方による全面協力のもと、その喜界島にて初となる文楽「俊寛」奉納が決定!
日本の歴史・文化に想いを馳せながら、改めて喜界島という豊かな土地の魅力も紹介する機会とします。


■プロジェクト誕生秘話
話の発端は、藤本 英子氏(元京都市立芸術大学教授)が喜界島に来訪した時に、ふと口にした「俊寛の像がなぜ喜界島に?」という言葉でした。
平家物語に描かれた俊寛僧都流刑の島は、鹿児島県「硫黄島」、鹿児島県「喜界島」、長崎県「伊王島」と3つの説があると言われています。
「硫黄島説は知っていたが、喜界島は知らなかった」と驚く藤本氏に、さらに「俊寛像近くの墓から、高貴な人と思われる古い人骨が出てきた」ことを説明すると、「これは是非、文楽の方にお話して、喜界島を舞台に俊寛の文楽公演をすることで、俊寛終焉の地としての喜界島を改めて世の中に発信しましょう」ということとなり、驚くべきスピードで、文楽の最高峰である豊竹 呂太夫師匠にまで話が繋がったのです。


■喜界島と俊寛 歴史的背景
喜界空港から徒歩10分の場所に立つ俊寛像。その奥には墓石があり、地元の人々は長年「ボーズンメ(坊主前)」と呼び、俊寛の墓とされていました。

1975年、墓の下から人骨と木片などが見つかり、地元自治体は国立科学博物館人類研究部長の鈴木 尚氏に鑑定を依頼。その結果、かなり古い時代のもので、島外の相当身分の高い人物だとされました。
この鑑定結果により、地元では俊寛が最後を迎えた島は喜界島であると考えています。

喜界島はサンゴ礁が隆起した島で、火山島ではありません。このため、平家物語などの記述(硫黄がとれる島など)と合致はしません。
ただ、喜界島も有名な流刑地で琉球王国、薩摩藩の統治時代を通じて流人がたびたび流されていました。その事を考えると俊寛がここに流されていた可能性もかなり高いと考えられます。

プレスリリース提供元:@Press

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