プレスリリース
ハートブリッジ協同組合 共同代表 趙詩蔓氏のインタビュー記事を「人民日報海外版日本月刊」にて公開します。
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ハートブリッジ協同組合 共同代表 趙詩蔓氏
冬晴れの日、本誌編集部が千代田区に移転した翌日、会議室に古い友人である趙詩蔓を迎えた。彼女は有名な非営利団体であるハートブリッジ協同組合の代表者の一人である。
彼女は仕事を通じ、100歳近い高齢者、日の出のような勢いの若者、また技能実習生、特定技能外国人として来日した青年、中年の人たちとの付き合いが大変多い。人間相手の仕事には特に忍耐と細やかな心遣いが求められる。中日両国間で活躍する趙詩蔓は、いかに言葉や文化の壁を取り払い、歴史上の誤解を解き、両国の平和を愛する人々や発展を求める人々の間に心の橋を架けているのだろうか。
■特別な身の上の日本の高齢者を応援
幼い頃から面倒を見てくれていた従姉妹が日本に出発する前、「日本語を勉強しなさい。日本語をマスターして、日本に会いに来て」と言い残した。それ以来、趙詩蔓は脇目もふらず日本語を勉強し、日本語学校の先生からは学習ノートを「完璧な授業案だ」と絶賛されたほどだ。2年間の努力と才能により、彼女は日本語専攻の大学4年生レベルに達し、さらに日本語を上達させるため、撫順を訪れる日本人の友好団体の通訳ボランティアを始めた。
撫順は傷だらけの街だ。100年以上前の日清戦争以来、撫順には数え切れないほどの日本との悲喜こもごもの歴史があった。1950年7月から1956年9月までは、ソ連に捕らえられた千人近くの日本人捕虜が撫順戦犯管理所に収容され、更生に努めた。日本に送還された後、これらの捕虜たちは中国人の寛容さと偉大さに感謝し、自主的に「中国帰還者連絡会」や「再生の大地合唱団」などの平和団体を結成して、中日間を行き来し友好交流活動をおこなっている。彼らは何度も撫順戦犯管理所旧址や撫順平頂山惨案記念館などの史跡を訪れ、敬意を表し追悼してきた。趙詩蔓は、通訳ボランティアの活動を通じて、母国における戦犯の更正の歴史的事実を知り、中日友好の実現が世界にとって大きな意味を持つことを深く認識するに至った。
5、6年間のボランティア活動を経て、彼女の中日友好のために奮闘するという信念は強くなった。
撫順を訪れた日本の友人たちは、ほとんどが白髪の高齢者だった。彼らは、中国人が彼らを寛容に扱い、彼らを助け、彼らを変えた、その歴史を広めるために弱った体でボランティアに参加したのである。たとえ国家レベルでは摩擦や不和があっても、中国の民衆が違和感を持っていたとしても、中日友好が氷河期に突入しても、特別な身の上を持つこの高齢者集団の初心は変わることなかった。そして、その精神は趙詩蔓に平和の信念を教えてくれた。この信念を持つ者は不滅の巨人なのである。
この旧日本軍捕虜たちと接する中で、趙詩蔓もまた次々と痛ましい話を聞いた。太平洋戦争の終戦間近になると、軍国主義の日本の軍部は学生にまで戦争の惨劇の魔手を伸ばしたのである。全盛期にあった彼らの人生は、学徒動員によって一変した。中国東北部に送られた直後、彼らは捕虜となり極寒のシベリアの収容所で10年以上辛い思いをすることになった。そして日本に帰ってきた時には、すでに中年になり、両親は他界し、家はなくなっていたのである。
彼らは、戦争による人間性、美、幸福の破壊を糾弾し、また故国に送還される前に中国の戦犯管理所で受けた世話と援助に感謝した。シベリアの過酷な環境にあっても、生きる喜びと未来への希望を捨てず、新聞を編集し、イベントを開催し、絵画を描き、日常を記録していた。その精神は、趙詩蔓に魂を揺さぶるほどの衝撃を与えた。彼女は、戦争の悲惨さと平和の大切さ、命と時間の尊さを自覚し、中日友好を一生の仕事とするという信念を固めた。
20年前にこの特別な高齢者たちと出会ってから今日まで、趙詩蔓はその素晴らしい人たちと共に歩みを止めずに前進してきた。高齢者たちは徐々にこの世を去っていくが、その歴史を忘れることはできない。だから自身が歩けなくなる日まで続けると言う。
■アジア各国の技能実習生を支援
青年、中年層の架け橋については2006年まで遡る。日本企業の担当者が中国で技能実習生を選抜する際、趙詩蔓はしばしば通訳を担当した。彼女は、中国東北地方の勤勉で素朴な人々が、自分の人生を変えるために海外に出ようとするのを見て、少しでも役立ちたいと常々思っていた。
10年以上、中日間の交流活動に携わった趙詩蔓は、中国人技能実習生の逃亡や不法滞在というマイナス面のニュースにも触れたが、彼らの生活上の困難や精神的ストレスは注目されていなかった。
趙詩蔓は2016年から管理団体で働き始め、技能実習生の世話をするようになった。「外国人の技能実習の適正な実施及び技能実習生の保護に関する法律」(技能実習法)の成立以前は、技能実習生の人権は保障されていなかった。また、文化の違いによる様々な問題が噴出していた。日本政府は技能実習生の権利を保障するため制度を改善したものの、個人的な問題には対応できなかった。
趙詩蔓は政策や制度が行き届かないところをフォローし、企業による技能実習生の処遇の実態を見守り、技能実習生の状況のわずかな変化にも注意を払うことで、問題は適切に解決でき、若者が技能実習制度を通じて運命を変えることのメリットを十分に発揮できると確信した。
彼女は、企業と研修生とのコミュニケーションに全身全霊を傾けたので、多くの企業や研修生から信頼を得るようになり、多くの企業から面接や審査などを任されるようになった。数年間の経験で成長した結果、夫の金子英隆と共にハートブリッジ協同組合を立ち上げた。「ハートブリッジ」とは、その名の通り、技能実習生が互いに心をつなげる場を提供するための橋渡し役である。早稲田大学で英文学、神奈川大学で法律を学んだ金子英隆は、外国人のビザ専門の行政書士であり、ハートブリッジの代表理事として専門知識を生かし技能実習生に寄り添っている。
「信頼は相互のものです。技能実習生をめぐる労働問題には、さまざまな要因が絡んでいますが、近年日本政府は技能実習生に対する政策を調整し続けており、技能実習生の待遇を守るための監督部門を設置しました。勤勉さと努力によって、彼らは専門技術はもちろん物質的にも、必ず収穫を得るはずです」と趙詩蔓は語る。
2017年末に入国した技能実習生たちが実習期間を終えて帰国しようとする際に、ちょうど新型コロナの世界的な大流行が始まった。各国が出入国審査を厳しくし、帰国の航空券価格は数倍に高騰したが、それでもチケットの入手は困難だった。趙詩蔓は彼らの帰国の夢をかなえるために、自分の持てる力を総動員して、比較的安価な航空券の確保を手伝った。また、日本に残ることを希望する技能実習生に対しては、金子英隆が雇用主と話し合い、彼らのために手続きを行った。
技能実習生は共同生活をしているため、集団感染の恐れが大きい。ハートブリッジは、技能実習生に消毒や抗ウイルス用品を無償で提供した。一旦感染の疑いが出ると、たとえ深夜でも趙詩蔓と金子英隆は即座に解熱剤や検査キットを買い、実習生の宿舎に送った。
法律では「技能実習1号」の実習生に対しては月1回、「技能実習生2号・3号」の実習生に対しては四半期に1回、管理団体が訪問することが義務づけられているが、趙詩蔓と金子英隆は、常に法律の規定を「超えて」仕事をしている。特に来日して間もない実習生には、半月に一度訪問している。
趙詩蔓の家は、みんなが集い交流する場所だ。時折、彼女の作る料理を食べながら、お互いの人生や仕事について語り合う。慣れ親しんだ故郷の味と田舎の暖かさが、技能実習生たちに、不平不満を捨てて困難を乗り越える勇気を与えてくれるのだ。
防疫上の必要性から海外要員の帰国前にはPCR検査が義務付けられているが、技能実習生が住んでいる地方には、検査会場が少ない。検査を受けやすくするため、また経済的な負担を軽減するため、趙詩蔓は彼らを自分の家に住まわせた。入国審査が最も厳しい時期には技能実習生は彼女の家に住み込み、3回の検査が全て陰性になってから出国したが、それは往々にして半月にも及んだ。
技能実習生が日本の法令や習慣を理解せず、失敗するケースもある。あるベトナム人技能実習生は、善意で他の地方に住む同胞を泊めていたが、勤務先の規則に違反して解雇された。彼は趙詩蔓に泣きながら相談したところ、一言「私がいるから大丈夫」との返事に、家の暖かさを知った。この技能実習生は彼女のもとに4か月間滞在したが、その間趙詩蔓は失業保険の申請を手伝い、それにより彼は生活できるようになった。家族よりも頼りになるこの信頼関係があったからこそ、このベトナム人実習生はほかで働く機会を失ったが、代わりにハートブリッジの紹介で再就職することができた。ほかにも多くの日本企業、技能実習生、特定技能を持つ外国人が、趙詩蔓とハートブリッジに信頼を寄せている。
信頼とは、励ましであり、励行させることでもある。趙詩蔓はいつも、より丁寧で忍耐強い仕事で彼らに報いている。
ベトナム語が話せない趙詩蔓と金子英隆が、どのようにそれを実現したのか。「誠意です。言葉や民族、国の壁を破るには、誠意が一番有効なんです。彼らの立場になって考えると、彼らもみな私たちを家族と思ってくれるんです」。
■青少年に中日友好継承の意義を考えさせる
海外に出る前、趙詩蔓は中国で教育の仕事をしていた。彼女は、多くの親が子供への愛情表現の仕方を知らず、物質的な満足にしか興味がないことに気づいた。来日後、彼女は自らの子育て経験をもとに、青少年教育について独自の理論を持つに至った。
日本のアニメについて詳しい中国の若者たちは、本当に日本の歴史や社会を理解しているのだろうか。今後20〜30年の間に、この17〜18歳の子どもたちが国や社会の柱となり、その価値観や世界観が今後の世界の発展に影響を与えることになる。
長年、中日友好に携わってきた趙詩蔓は、日本や故郷の撫順で多くの人脈を形成してきた。彼女が中日青年交流事業の構想を提案したところ、撫順市の各レベルの指導者はもちろん、「再生の大地」合唱団団長の姫田光義中央大学名誉教授など、中日友好に尽力する文化界の代表からすぐに支持と理解を得ることができた。
2016年から2019年までの4年間に、趙詩蔓は中国の若者のために日本への交流旅行を何度も企画し、その総数は千人を超えた。同時に、日本の中日友好関係者と連絡を取り合い、撫順の大学で講演や交流の場を設けた。
交流活動に参加した中日両国の青少年の間には言葉の壁があったものの、同世代同士の友情が生まれ、スポーツや共通の趣味によってすぐに打ち解けることができた。また、趙詩蔓は、交流プログラムに参加する中国の子どもたちに、中日の文化の違いを理解し、日本社会の一般の人々の配慮や愛情を感じることができるよう、ホームステイ体験を手配した。
撫順第一中学・高校は日本訪問後、千葉市稲毛区の中学校の制服を参考に、スタイリッシュで着心地の良い制服をデザインし、学校全体をイメージアップし、そして生徒の自信と誇りを高めた。ホームステイを体験した中国の若者たちが書いた心のこもった作文を読み、趙詩蔓は中日交流の活動に身を投じる決意をさらに強くした。「子どもたちのため、未来のために、苦労する価値があります」。
■取材後記
アフターコロナの時代を迎え、国際的な人と人との交流、経済貿易や文化交流は徐々に再開されつつある。美しい髪を短く切りそろえた彼女をよく知る人は、熱い心を持つ趙詩蔓が再び中日友好を強固にし、技能実習生の支援と中日の青少年の相互往来を促進するために奔走するだろうことを知っている。
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